第2回:共感より構造〜差別をなくすための冷静な見方

時事

どーも、捌零式です。ハロにちは〜。前回に引き続き第2回になります。今回は差別は“個人の悪”なのか?そうでなければどう考えるべきかをまとめてみました。

差別をなくしたい。
多くの人がそう願い、SNSでも日々「#NoRacism」「#多様性」などの言葉が飛び交っています。
過去には「#MeToo」などもありましたね。
けれど、どれほど声が上がっても、差別はなくならない。
それどころか、社会の分断はむしろ深まっているように見えるのです。

なぜなのか。
それは、私たちの多くが「差別」を“個人の悪意”としてだけ見ているからです。
つまり「差別をする人が悪い」「その人を糾弾すれば社会は良くなる」と考えてしまう。
だが現実には、差別はもっと静かで、もっと根が深い。
個人の問題ではなく、社会の構造が生み出す現象なのです。


「悪い人」を探す限り、差別はなくならない

差別を語るとき、私たちはつい“加害者”と“被害者”を設定してしまいます。
誰かが悪くて、誰かが傷ついた――その図式が一番わかりやすい。
けれど、そのわかりやすさが落とし穴になります。

なぜなら「悪い人」を探す構造そのものが、差別の再生産だからです。
人は自分が“良い側”に立つことで安心し、他者を“悪い側”に置くことで自分を守る。
その心理が、まさに差別の根本構造と同じです。

つまり、「差別する人」を一方的に糾弾しても、
差別の構造自体は何も変わらない。
むしろ新たな対立関係を生み出すだけなのです。


差別は「構造」に宿る

社会には目に見えない「前提の偏り」があります。
たとえば、ある職場で管理職の大半が男性だったとしましょう。
そこに明確な悪意がなくても上長が男性の場合、男性の方が話しやすく深く意見交換ができる為、男性が管理職に選ばれやすい状態であるならば、それこそが差別に繋がりやすい構造です。
誤解のないように書きますが、管理職の大半が男性であること自体は差別ではありません。
本来であれば適切な適性試験の結果をもとに判断されるべき状況おいて、同性である事がアドバンテージになることが、差別に繋がりやすい構造であるということです。

では、この上長は差別主義者(レイシスト)なのでしょうか。これは偏った判断がなされやすい構造の問題であり、誰か一人の責任ではありません。
文化、制度、習慣、教育、言語――社会全体が形づくる「見えない仕組み」なのです。
だからこそ、個人を叩いても何も変わりません。

差別をなくすには、まず「構造を見る目」を持たなければなりません。
「誰が悪いか」ではなく、「どんな仕組みがその差別を生んでいるか」を確認して是正措置を検討する。
それが、社会を前に進める第一歩になるのです。


感情の共感ではなく、冷静な観察を

「差別はよくない」「被害者の気持ちを考えよう」というメッセージは一見正しい。
ですが、“共感”は万能ではありません。
共感は時に、感情を強化し、冷静な理解を妨げることがあります。

たとえば、SNSで悲しい出来事が共有されたとき、
多くの人が怒り、涙し、ハッシュタグをつけて拡散します。
決して悪いことではありませんし、投稿主には救いになるかも知れません。
しかし、その一連の行動がどれだけ社会を変えたかは不明瞭です。
感情の共有は一瞬の熱を生むが、構造を変える力にはなりにくい。

必要なのは、感情的な共感よりも、冷静な観察と仕組みの理解です。
「なぜその出来事が起きたのか」「どんな社会的背景があったのか」――
そう問い直す力が、感情よりもずっと強い“再発防止力”を持っています。


「差別をなくす」とは、構造を更新すること

差別をなくすとは、悪人を見つけたり罵ったりすることではありません。
社会の構造を少しずつ更新していくことです。

  • 仕組みが古いなら変える
  • 常識が偏っているなら見直す
  • 教育が足りないなら補う

こうした地味な積み重ねが、社会を静かに変えていきます。
逆に、感情的な糾弾や排除は一時的な快感を与えるだけで、
根っこの歪みはそのまま残る。

本当の意味での反差別は、
「誰かを倒す」ことではなく、「仕組みを作り直す」ことなのです。


捌零式的まとめ

差別は“悪い人の問題”ではなく、“社会の構造の問題”。

だからこそ、必要なのは怒りではなく、観察。
感情よりも冷静さ、共感よりも構造。

「敵を探す正義」ではなく、「仕組みを見直す理性」を。

差別をなくすとは、社会を更新し続ける意志のこと。


次回予告(第3回)

「多様性の成熟 ― 日本型ダイバーシティという可能性」
欧米的な“声の多様性”から、日本が持つ“調和の多様性”へ。
静かに共に生きる力を考えます。