どーも、捌零式です。ハロにちわ〜。
センシティブな話題が続いていて恐縮ですが、また共生やらなんやら気になる事があり書いてみました。
是非、読んでみてください。
距離感が合わないと疲れる理由|距離とは気遣いの幅である
最近、ニュースやSNSを見ていて思うことがあります。国籍や宗教、価値観の違いそのものが問題というよりも、距離感が合わないことで衝突が起きている場面が増えている気がするのです。
先に言っておくと、私は外国人が嫌いという話ではありません。むしろ割と好きです。自分にない感性、アグレッシブさ、育ってきた環境による常識の違いが会話のネタになって盛り上がることも多いですし、異文化は面白いです。個人として良い点は取り入れればいいと思っています。
ただし、これは日本という国、制度、コミュニティの中でという話です。日本に住む以上、日本のルールや公共空間の秩序が土台になります。知らないまま来ること自体は構いません。ゆっくり理解してくれればいい。でも、知らないまま来て、私は知らないんだから自分のやり方でやるぞ、となると話は別です。
この違いを一言で言うなら、問題の中心は国籍でも文化でもなく、姿勢です。そして、その姿勢が最も表に出るのが距離感だと思っています。
距離とは何か|距離は気遣いの幅(量)である
私は距離をこう捉えています。距離とは、相手に対して必要とする気遣いの幅(量)です。
距離が遠いとき、人は慎重になります。どこまで踏み込んでいいか分からないので、言葉を選び、相手の反応を見て、少しずつ調整します。つまり、気遣いの余白が残っています。
逆に距離が極端に近いと、気遣いが省略されやすくなります。遠慮がショートカットされ、察する前提で踏み込まれやすい。そこで日本人は、こいつ気遣いが足りない、遠慮がない、と感じやすくなります。これは相手が悪人だからではなく、距離と気遣いの関係が崩れるからです。
距離を詰めること自体が悪いのではありません。問題は、距離を詰める速度と、そのときに必要な気遣いを相手が理解しているかどうかです。
海外の距離感と日本の距離感|プロトコルが違う
海外の人は、心を許さず距離を詰めることに慣れている、と私は感じます。正確には、それがコミュニケーション文化として成立している地域が多いという意味です。距離を詰めることが関係構築のスタートであり、心を許すかどうかはその後に決まる。いわば、近づきながら合うかどうかを見て、合わなければ離れる。こういう流れです。
一方で、日本人は距離を詰めることを心を許すことと結びつけがちです。先に距離を保って安全確認をし、気遣いを積み重ね、信頼ができてから距離を縮める。段階制です。だから急に距離を詰められると、いやまだそこまで仲良くない、となりやすい。
このズレが、海外の人からすると冷たい、何を考えているか分からない、という評価につながります。日本側からすると、踏み込みが早い、なれなれしい、図々しい、という違和感になる。どちらも悪意があるわけではなく、通信規約が違うだけです。
知らないことは罪ではない|問題は学ばない、合わせない
ここで大事なのは、知らないこと自体は罪ではないということです。日本に来た時点で、日本の文化や慣習や空気感を全部知っている必要はありません。むしろ、分からないから学ぼう、周りを見よう、迷惑をかけないようにしよう、という姿勢があれば十分です。
この話は外国人に限りません。日本人でも同じです。新しい職場、地域のコミュニティ、子どもの学校関係、どこでも当てはまります。最初は知らなくてもいい。でも、知らないまま、私は知らないから自分の流儀でやる、は共存ではなく衝突の予告です。
距離感のズレで起きるトラブルの多くは、実はこの姿勢の問題と直結しています。相手の反応を見て調整するか、調整しないか。これが分かれ道です。
道端の礼拝が象徴するもの|宗教ではなく公共空間の話
ここは誤解されたくないので丁寧に書きます。私はイスラム全員がどうこうと言いたいわけではありません。問題にしているのは、宗教や文化のルールを公共空間で押し付けるような行為です。特に、他国では控えるのに日本でだけ迷惑をかけながら行うようなケースです。
公共空間は、みんなの場所です。個人の信仰は尊重されるべきですが、同時に公共空間には秩序が必要です。ルールは、誰かの自由を奪うためではなく、全員が安全に共存するためにあります。
それなのに、公共空間での行為を指摘した途端に、差別だと話をすり替えると、現場の人は萎縮します。萎縮が続くと不満が溜まり、極端な排外感情が生まれます。皮肉なことに、無制限な寛容は、対立の火種になります。
だから必要なのは排除ではなく、条件の明確化です。日本の公共空間で何が許され、何が許されないか。国籍や宗教ではなく、行為とルールで線引きする。それが一番揉めにくい形です。
なぜ最近こういう人が増えたのか|ネットが普通を捏造する
最近、自分が知っていることが全てで善だとうっすら思っている人が増えた気がします。もちろん昔からいたはずです。ただ、昔は可視化されにくく、影響が限定的だった。今はネットで簡単に表に出るし、拡散します。
さらに厄介なのは、ネットが同じ意見を無限に集められることです。都合のいい意見を集めれば、私は少数派ではない、これが普通だ、という擬似的な多数派感覚が作れます。アルゴリズムは気持ちよくなる意見を優先して運んでくるので、修正が入りづらい。結果として、自分の世界が正義だと思い込みやすくなります。
これは私も自戒が必要です。自分も都合のいい情報だけ集めていないか、自分の正しさを疑えているか。これを定期的に点検しないと、いつの間にか相手を見ずに主張だけ投げる側に寄ってしまう。距離感の問題は、結局ここに戻ってくる気がします。
すれ違いの典型パターン|冷たいと図々しいは同時に起きる
距離感のズレが起きると、だいたい次のパターンになります。
- 海外側:フレンドリーに近づいたのに壁を感じる。だから冷たい、閉鎖的だと思う。
- 日本側:まだ様子見なのに踏み込まれた。だからなれなれしい、図々しいと思う。
両者とも悪意はなく、前提が違うだけです。ただ、問題はここからです。前提が違うまま、相手が合わせるべきだと主張し始めると、一気に揉めます。近づくことを正義と信じる人が、合わせない相手を非難する。あるいは、遠慮を正義と信じる人が、相手の文化を一切学ぼうとしない。どちらも極端です。
本当に相性がいいのは、距離を測りながら近づける人です。相手の反応を見て調整できる人。まだ早いかなと立ち止まれる人。こういう人は国籍も宗教も関係なく、日本社会と噛み合います。
現実的な落としどころ|排除ではなく条件化、理解の設計
制度や社会の話になると、排除か無制限受容か、という二択にされがちです。でも現実はもっとシンプルで、条件化すればいいだけです。
たとえば日本で暮らすなら、最低限のルール遵守が必要です。交通ルール、公共マナー、契約、税、居住に関わる制度など。これらを理解できるように支援することは重要です。ただし支援は無条件ではなく、参加条件付きのほうが機能します。学ぶ意思がある人は助ける。学ぶ意思がない人は、徐々に制限する。こういう手順を透明にすることが、差別ではなく公平につながります。
そして大事なのは、現場に丸投げしないことです。自治体や学校や警察など、現場はクレーム処理で疲弊します。制度の曖昧さが現場の地獄を生む。だから国の設計や仕組みとして、条件と手順を明確にし、責任の所在を整理し、運用コストを下げる必要があります。
個人としてどう距離を取るか|三つの小さな工夫
社会全体がすぐに変わらない以上、個人としてできる工夫もあります。私は次の三つが効くと思っています。
1. 距離を詰める速度を合わせる
相手が近い文化の人なら、こちらも少し近づいてみる。ただし踏み込みすぎない。日本の段階制を大切にしつつ、相手の文化も尊重する。速度を合わせるだけで摩擦はかなり減ります。
2. ルールの話は行為に落とす
国籍や宗教の話にすると一気に火がつきます。そうではなく、公共空間での行為として整理する。ここではこの行為が迷惑になる、ここはルール上こうだ、と具体で話す。抽象の議論は分断を生みやすいです。
3. ネットの普通を信用しすぎない
ネットで普通と言われているものは、単に同じ意見が集まっているだけかもしれません。自分も同じ罠に落ちる。だからこそ、違う意見にも一度触れる。感情が揺れるときほど、距離を置いて確認する。これが自分の距離感を守る方法です。
結び|距離を測りながら近づく能力が共存を作る
私は、異文化が面白いと思っています。外国人と話すのは楽しいし、個人として尊重し合うのは当たり前です。ただ、それが日本という国、制度、公共空間の中で成立するためには、ルールと距離感が必要です。
知らないまま来てもいい。ゆっくり理解してくれればいい。でも、知らないことを免罪符にして、自分のやり方を押し通すのは違う。これは外国人でも日本人でも同じです。
距離とは気遣いの幅です。距離を尊重できる人は、文化が違っても共存できます。距離を尊重できない人は、同じ文化の中でもトラブルを起こします。だから私は、国籍でも宗教でもなく、距離を測りながら近づく能力を大事にしたいと思っています。
正解は一つではありません。だからこそ、自分の頭で考え、ルールと共存のバランスを取り続けるしかない。ネットの普通に流されず、現実のコミュニティでどうしたら衝突を減らせるかを考える。それが、これからの時代に必要な姿勢だと思います。

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