どーも、捌零式です。ハロにちわ〜。以前にも共生について書いていますが、最近また思う事があったので長々と書いてみました。1章から7章に章立てで書いてますので、少し長いですが読んでみてください。
第1章:街頭に溢れる「怒号」と、失われた対話の作法
現代の日本の街頭は、いつからこれほどまでに「言葉の通じない場所」になってしまったのでしょうか。
休日の銀座や新宿、あるいは地方都市の駅前。そこには、かつての政治活動とは一線を画す、異様な熱気と殺伐とした空気が渦巻いています。一方には、日の丸を掲げ、現政権の移民政策や特定の外国人グループに対して過激な言葉を投げかける右派勢力。そしてもう一方には、それを取り囲むようにして、耳をつんざくようなドラムの音と「帰れ!」「差別主義者は去れ!」という怒号を浴びせかける「カウンター」と呼ばれる反差別集団。
この光景を遠巻きに眺めるとき、感じるのは、どちらの主張が正しいかという政治的判断以前の、もっと根源的な「不気味さ」です。
そこにあるのは、互いの主張をぶつけ合い、着地点を探る「議論」ではありません。相手の存在そのものを否定し、物理的、あるいは聴覚的に「かき消す」ことだけを目的とした、剥き出しの敵意の応酬です。まるで、異なるプロトコル(通信規約)を持つシステム同士が、互いを「不正なデータ」として弾き合っているような、致命的なデッドロック状態に陥っています。
プロジェクトマネジメントの現場で、相反するステークホルダーの要望を整理し、現実的な解を導き出すことを生業とする私のような人間から見れば、この光景は異常事態です。要件定義もなされず、合意形成のプロセスも無視され、ただ声の大きい者が場の主導権を握ろうとする。そこには「社会を良くする」という共通のゴールなど微塵も存在せず、ただ「相手を論破し、屈服させる」という自己満足的なパフォーマンスだけが踊っているのです。
第2章:相対的座標と絶対的座標
この醜い応酬を理解するためには、一度立ち止まって「右翼」「左翼」という言葉の本来の意味を整理しておく必要があります。
そもそもこの言葉の起源は、1789年のフランス革命期における国民公会の議席位置にあります。議長席から見て右側に陣取ったのが、伝統や秩序の維持を重んじた「保守派」であり、左側に陣取ったのが、急進的な社会変革を求めた「革新派」でした。
この歴史的事実が示す重要な点は、右も左も、その出発点は「この国をどう運営し、より良い未来を築くか」という共通の土俵の上にあったということです。手法や速度に違いはあれど、そこには国家というシステムを維持・向上させようとする、ある種の「愛国心」が前提として存在していました。
しかし、現代の日本における一部の「右派」や「左派」はどうでしょうか。
本来の保守とは、自国の伝統を愛し、法と秩序を重んじる「品格」を伴うべき存在です。しかし、今の街頭で見かける一部の勢力は、単なる排外主義や属性による攻撃を「保守」と履き違えているように見えます。
一方で、本来のリベラルとは、個人の尊厳を守り、多様性を認める「寛容」の象徴であったはずです。ところが、彼らの一部は「反差別」という大義名分を盾に、自分たちと意見の異なる他者を徹底的に排斥し、罵声を浴びせるという、最も不寛容な集団へと変質してしまいました。
つまり、現在の対立構造は、高潔な理念に基づく「議論」などではなく、単なる「自分の居心地の良さを守りたい排他的な集団」と、「正義という快楽に溺れた攻撃的な集団」による、座標軸を失った泥仕合に過ぎないのです。
第3章:保守が「守るべきもの」と、差別の境界線
ここで誤解のないように断っておかなければならないのは、右派的な思想を持つ人々すべてが過激であると言いたいわけではない、ということです。自国の行く末を案じ、伝統を重んじる良識ある保守層は確実に存在します。しかし、残念ながら現在の街頭やインターネット上では、そうした静かな多数派をかき消すほどに、一部の過激な言動が「目に余る」状態にあるのは否定できない事実です。
彼らが抱く不安の根源には、一定の理解の余地がある場合もあります。例えば、拙速な移民政策の推進や、一部の不法滞在者による実害、ルールを守らない一部の外国人グループに対する地域住民の切実な訴えなどです。これらは放置すれば社会の基盤を揺るがしかねない現実の問題であり、それに対して懸念を表明することは、決して「差別」ではありません。
しかし、問題はそこからの「論理の飛躍」にあります。
特定の個人やグループが起こした問題を、その国籍や民族全体に拡大解釈し、十把一絡げに攻撃し始めた瞬間に、それは正当な「批判」から、卑劣な「差別」へと変質します。本来の保守とは、法治と秩序を何よりも重んじるはずです。それにもかかわらず、属性を理由に人格を否定し、排外的な言葉を投げつけることは、自らが守ろうとしている日本の文化や品格を、自分たちの手で泥に塗る行為に他なりません。
正当な不安を抱くことと、他者を差別することは全く別次元の話です。一部の過激な層が「正義」を盾にして理性を失い、単なる排外主義に走る現状は、保守という思想そのものの価値を貶めています。今、求められているのは、自分たちの内側にある「目に余る過激さ」を自律的に排除する「自浄作用」を取り戻すことではないでしょうか。
第4章:「反差別」という聖域と、対話の拒絶
一方で、それに対峙する「左派」あるいは「リベラル」を自称する勢力もまた、極めて危うい変質を遂げています。その象徴的な存在が、かつての「レイシストをしばき隊(現・C.R.A.C.)」に代表されるカウンター集団です。
彼らの行動原理を紐解くと、そこには明確な思想的支柱が存在します。中心人物の一人である野間易通氏は、その著書や発言において、「差別は議論の対象ではなく、即座に止めるべき実力行使の対象である」(参照:『実録・レイシストをしばき隊』等)という主張を展開しています。
彼らの論理を整理すると、「差別(ヘイトスピーチ)は単なる意見ではなく、それ自体が他者の尊厳を破壊する暴力である。暴力に対して『それが正しいかどうか』を議論する余地はない。強盗を働こうとする者と議論を交わす者がいないのと同じように、差別主義者に対しては、現場でその声を物理的にかき消し、社会的に排除することこそが正解である」というものです。
こうした姿勢を正当化する際、彼らがしばしば引用するのが哲学者カール・ポパーの提唱した**「寛容のパラドックス」**です。「もし無制限な寛容を不寛容な人々にまで広げれば、寛容な人々は滅ぼされ、寛容も彼らとともに滅びる。したがって、寛容を維持するためには、不寛容なものに対して不寛容である権利を留保しなければならない」という説です。
一見すると、この論理は「弱者を守るための知的な盾」のように聞こえるかもしれません。しかし、ここにこそ現代の「反差別運動」が陥っている致命的な自己矛盾があります。
ポパーが説いたのは、あくまで「理性を拒絶し、暴力によって自らの主張を押し通そうとする不寛容」に対する最後の手段としての不寛容です。しかし、現在の彼らが「不寛容」のレッテルを貼る対象は、あまりに広範かつ主観的です。自分たちの定義に100%同意しない者、あるいは「中立」を保とうとする者までを「不寛容なレイシスト」と断定し、即座に実力行使の対象とする。
これはもはや「寛容を守るための戦い」ではありません。自分たちの価値観を唯一絶対の正解とし、それにそぐわない他者の存在を一切認めないという、それ自体が最も完成された「不寛容」の姿です。
彼らは「寛容のパラドックス」を、自分たちが振るう暴力や罵声を正当化するための便利な「免罪符」として悪用しています。確信を持って「言葉」を捨て、代わりに「力」を選んだ彼らは、その瞬間に、自分たちが最も忌み嫌っていたはずの「独裁的な不寛容」へと鏡合わせのように変質してしまったのです。
第5章:「正義」という名の私刑(リンチ)とDV的論理
彼らが掲げる「差別は議論の対象ではない」という独善的なロジックは、現実社会において具体的な「暴力」や「排除」という形となって表れています。
その最たる例が、かつて発生した「大学院生リンチ事件(通称:M君事件)」です。反差別の急先鋒を自認するグループのメンバーらが、仲間のひとりを「差別的だ」と決めつけ、凄惨な暴行を加えたこの事件は、彼らの「正義」がいかに容易く「私刑(リンチ)」へと変質するかを物語っています。
この事件の本質は、彼らが「自分たちの基準で悪と見なせば、法のプロセスを飛び越えて制裁を加えてもよい」という特権意識を持っていた点にあります。これこそが、家庭内で暴力を振るう加害者が繰り返す身勝手な論理――「お前が俺を怒らせるような(差別的な)ことをしたから、俺は殴る権利がある。これは正義だ」というDV的論理と完全に一致します。
相手に弁解の余地を与えず、自分こそが唯一の審判者であると振る舞う。そこには相手に対する一欠片の尊厳も、ましてや法治国家の市民としての節度も存在しません。
また、彼らはSNSや街頭において、自分たちの意見に同調しない一般市民に対しても、「中立は差別の加担である」という極論を突きつけ、激しい言葉で恫喝することも少なくありません。これはもはや「啓蒙」などではなく、精神的な「監禁」に近い状態です。
自分たちの主観的な「正義」を絶対視するあまり、客観的なエビデンスや適正な手続きを無視し、恐怖やレッテル貼りによって現場を支配しようとする。そんな手法が、健全な社会システムの中で受け入れられるはずがありません。彼らが叫ぶ「反差別」という言葉は、今や自身の不遜で稚拙な選民意識を隠すための包装紙に成り下がっています。自らを「歴史の正解側に立つ選ばれし者」と信じ込み、その高みから「遅れた衆愚」を導いてやると豪語する。その救いようのない傲慢さこそが、社会に新たな分断と憎悪を撒き散らしている元凶なのです。
第6章:私が思う「差別」との向き合い方、反差別としてのあり方
では、私たちは「差別」という問題に対して、どのようなスタンスで向き合うべきなのでしょうか。私は、真の意味で差別を否定し、健全な社会を維持するためには、感情に任せた「実力行使」ではなく、冷徹なまでに「手続き」を重んじるべきだと考えています。
まず明確に区別すべきは、「排除すべき直接的暴力」と「議論すべき言論」の境界線です。
目の前で誰かが物理的に暴行を受けている、あるいはナイフを突きつけられているといった「直ちに生命の危険に関わる事象」であれば、そこに議論の余地はありません。即座に介入し、物理的に排除し、被害者を守ることが正解です。これは法治国家においても「正当防衛」や「緊急避難」として認められた、人道上の義務とも言えるアクションです。
しかし、現在「反差別」を掲げる集団が実力行使の対象としているものの多くは、こうした緊急事態ではありません。彼らが標的にしているのは、あくまでも「言葉」や「思想」です。
どれほど不快で、どれほど倫理的に許しがたい言説であったとしても、それが直接的な物理的暴力に及んでいない限り、私たちは以下のプロセスを踏むべきです。
1. 徹底した「反論」と「議論」: 言論によって引き起こされた不快感は、まず言論によって撃退されるべきです。何が間違いであり、何が差別に当たるのかを白日の下に晒し、論理的に破綻させる。これこそが自由主義社会の作法です。
2. 法的手続きの遂行: 言論が「名誉毀損」や「侮辱」、あるいは「ヘイトスピーチ解消法」などの法に抵触するのであれば、司法の場に引きずり出すべきです。自ら中指を立てて怒鳴り散らすのではなく、法に裁かせる。これこそが法治国家の市民の戦い方です。
このプロセスを「時間がかかるから」「相手が話を聞かないから」という理由で端折り、いきなり「しばき(実力行使)」に走ることは、民主主義のコストを支払うことを拒否した「怠慢」に他なりません。相手を人間として尊重していないという意味で、それ自体が極めて深い「差別」の構造を含んでいます。
第7章:最後に — 適切な「距離」が平和を作る
私は、差別を許しません。同時に、反差別という看板を掲げて「自分こそが正解である」と傲慢に振る舞う、歪んだ選民意識もまた、断じて許容できません。
今の日本社会に必要なのは、互いに肩を組んで歌い合うような、実態を伴わない「理想の共生」ではありません。価値観が根底から異なり、生理的な嫌悪感すら抱く相手であっても、同じ社会というシステムを稼働させる「市民」として、最低限のルールとマナーを守り合うという、冷徹なまでのリアリズムです。
急激な社会の変化や、異文化との接触には、必ず摩擦が生じます。その摩擦を「正義」という名の暴力で強引に消し込もうとしたり、あるいは特定の属性を「悪」と決めつけて排除しようとしたりするのは、思考の停止であり、文明の退行です。
平和とは、単に争いがない状態を指すのではありません。
それは、互いに適切な「距離」を保ち、感情の爆発を「法」と「論理」という防波堤で食い止める、終わりのない努力の継続です。
「俺たちが社会を啓蒙してやる」という不遜な態度を捨て、自分たちもまた、過ちを犯しうる不完全な存在であることを自覚すること。そして、どれほど相手が憎くとも、対話のテーブルを蹴り飛ばさずに踏みとどまること。それこそが、法治国家に生きる大人の、そして自由を愛する市民の「矜持」ではないでしょうか。
今、街頭で声を荒らげている人々に、私は問いかけたいと思います。
あなたの振るうその「正義」は、本当に社会を良くするためのものですか?
それとも、単に自分の優越感を満たすための、安易な「武器」ではありませんか?
今一度、私たちは冷静になる必要があります。適切な距離を保ち、ルールを守る。その小さな積み重ねの先にしか、真に安定した社会は存在しないのです。
長々と書きましたが、ここまでお付き合いいただき誠にありがとうございます。私の意見が絶対的正義だなどと言うつもりはありません。ただ、巷で目にする「強い言葉で相手を罵る行為」は右派左派問わず、とても文化的かつ建設的な議論とは程遠い行為です。
このような不毛な争いが終わり、お互いが適切な距離を保ち建設的な意見が言い合える世界を目指したいですね。それではまた。

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