どーも、捌零式です。ハロにちは〜。SNSを見ていると感じる差別的発信とそれを取り巻くやり取りに関して、私個人が感じでいることを文章にして残したいと思います。長くなってしまうので3回に分けて書いてみます。
インターネットが社会の主戦場になった今、私たちは「正義」という言葉を日常的に使うようになりました。
SNSを開けば、誰かが誰かを「レイシストだ」と断罪し、別の誰かがそれを擁護し、また別の誰かが「差別反対」を叫ぶ。
そこにあるのは、かつてのような議論ではなく、道徳の殴り合いです。
差別を許さないという姿勢は、もちろん正しい。
けれど問題は、その“正しさ”が「攻撃の理由」になってしまうときです。
自分が正義の側に立っているという確信が強いほど、人は他者を理解しようとしなくなる。
そしてその瞬間、正義は「光」ではなく、「刃」に変わります。
「レイシズム」という言葉の変質
もともとレイシズムとは、「人種や民族などの属性によって人間の価値を上下づける思想」を指します。
しかし現代のSNSでは、その意味が大きく変わってしまっている。
今では「不快な発言をした人」や「自分と違う意見を言った人」さえ、安易に“レイシスト”と呼ばれます。
言葉が軽くなると、世界はすぐに二分化されます。
「善か悪か」「味方か敵か」――中間が消える。
そして、複雑な現実を考える余裕が奪われていきます。
SNSの構造は、その単純化を促進します。
短い文章で強い言葉を使う方が、共感も反応も集まりやすい。
結果として、「怒り」が最も拡散力のある感情になってしまいました。
「怒り」は正義の証ではない
多くの人が誤解していますが、怒ること自体は悪ではありません。
理不尽に対して憤りを覚えるのは、人間として当然の感情です。
しかし、「怒り=正義」と勘違いした瞬間に、危うさが生まれます。
怒りは一瞬で人を行動させる力を持つが、その力は常に“敵”を必要とする。
敵がいる限り、正義は保たれる。
だが敵が消えたあと、その怒りはどこに向かうのか?
多くの場合、それは次の標的を探し始めます。
つまり、怒りに依存した正義は、終わりのない戦いを生む。
そして「差別をなくしたい」という願いさえも、気づかぬうちに「差別する人を攻撃したい」という欲求にすり替わってしまうのです。
反差別が差別に変わる瞬間
「外国人は危険」「○○人は信用できない」という発言を私たちは差別と呼びます。
では、「差別主義者は最低だ」「レイシストは人間じゃない」と罵るのはどうでしょうか。
立場が逆転しているだけで、構造はほとんど同じです。
人を属性で判断し、背景も知らずに一括りにして扱う――。
それが差別の根本構造だからです。
つまり、“反差別”の名を借りた差別が、現代には溢れています。
これは道徳的な問題というより、心理的な構造の問題です。
人は「悪者」を設定することで、自分の善良さを確認したくなる。
「自分は正しい」という安心感を得るために、“レイシスト”という存在を叩く。
その構造こそが、差別の原型と同じなのです。
「敵をなくす」ことが本当の反差別
本当に差別をなくしたいのなら、差別主義者を“やり込める”ことではなく、
「なぜそう考えるのか」を理解しようとする姿勢が必要です。
多くの偏見は、無知や恐怖から生まれる。
知らないものを怖がり、誤解し、排除してしまう。
だからこそ、対話と教育、そして“共に生きる経験”が何よりの薬になります。
もし相手が法律を犯すような言動をしたなら、冷静に通報すればいい。
感情でぶつかる必要はありません。
怒りではなく理性で社会を修正することこそ、成熟した正義の形だと思います。
捌零式的まとめ
「敵を叩くこと」は一時的な満足。
「相手を理解すること」は長期的な解決。差別をなくすとは、敵を増やさないこと。
正義を名乗るほどに、人は他者を裁きやすくなる。
次回予告(第2回)
「共感より構造 ― 差別をなくすための冷静な見方」
差別を“個人の悪”ではなく、“社会の構造”として理解する。
怒りから一歩離れた、冷静な反差別論を書いてみます。

