第8章|「価値がある」と言われるものの違和感

Fashion

どーも、捌零式です。ハロにちわ~。前章では少しアカデミックというか、ヴィンテージの構造について真面目に語りすぎたかもしれない。だが、あの前提があるからこそ、この第8章の話が活きてくる。

今の古着市場を見渡してみてほしい。 毎日、新しい「言葉」が生まれている。

「Y2K」「アーカイブ」「テック系」「オールドユニクロ」「赤耳直後」。

SNSを開けば、誰かが作った定義によって、昨日までゴミ同然だったものが今日から「価値ある一品」として棚に並んでいる。 正直に言わせてもらう。
俺は、この「言葉で価値を無理やり作り出す構造」に、強烈な違和感を感じている。

この章では、その違和感の正体を暴いていく。 特に、最近巷で耳にする「オールドユニクロ論」への俺なりのアンサーと、言葉による価値のインフレに対する批判を、解像度高く展開していこう。


オールドユニクロはヴィンテージになり得るか

以前にも別記事で触れたが、避けて通れないのが「オールドユニクロ(OLD UNIQLO)」の話だ。 90年代から2000年代初頭のユニクロを指して、今、一部の感度の高い層や古着屋が「ヴィンテージ的な価値がある」と持ち上げている。

確かに、当時のユニクロは面白かった。 今よりも生地が肉厚だったり、デザインにどこか無骨な「余白」があったりした。 だが、結論から言おう。

俺は、オールドユニクロは決してヴィンテージにはなり得ないと思っている。

勘違いしないでほしい。当時の服としての「質」を否定しているわけではない。
「ヴィンテージの定義」に照らし合わせたとき、決定的な欠落があると言っているのだ。

第7章で語ったことを思い出してほしい。 ヴィンテージの価値とは「設計されていないこと」と「再現不可能性」にあったはずだ。

ユニクロというブランドの根幹にあるのは、徹底した「最適化」と「均一化」だ。 それは、世界中の誰にでも、同じクオリティの服を、適切な価格で届けるという崇高な企業努力の結果である。

90年代のユニクロであっても、それはすでに「価値が設計されたプロダクト」だった。 何万枚、何十万枚と、寸分狂わぬ精度で作られた量産品。 そこには、ヴィンテージが持つべき「個体差」や「偶然のゆらぎ」が入り込む余地が、最初から排除されている。

30年経ったからといって、その設計された価値が「生成された価値」に化けることはない。 それはどこまで行っても「古い良品」であって、ヴィンテージではないのだ。


「古い良品」と「ヴィンテージ」の境界線

ここを混同してはいけない。 「昔のユニクロは質が良かったから、今の古着市場で価値がある」 これは、ただの「過去の良品再評価」に過ぎない。

ヴィンテージとは、本来「そうなるはずじゃなかったもの」が、時間のフィルターを経て「なってしまったもの」だ。 一方で、ユニクロのような優れたマスプロダクトは、最初から「完成されたもの」として出荷されている。

たとえ100年経っても、大量生産のシステムが完璧であればあるほど、そこにヴィンテージ特有の「魔力」は宿らない。 「誰が着ても同じように馴染む服」を目指したユニクロと、「着る人間や環境によって取り返しのつかない変化を遂げる服」であった初期のリーバイスやミリタリーウェア。 この両者の間には、決して越えられない壁がある。

オールドユニクロをヴィンテージとして扱うのは、ヴィンテージという言葉をあまりに軽んじていると言わざるを得ない。 それはファッションの楽しみ方としてはアリかもしれないが、俺たちの「思想」としては、明確に線を引くべき場所だと思っている。


言葉で価値を捏造する構造への嫌悪

今の市場に対して俺が最も苛立ちを感じているのは、物そのものを見る前に「言葉」が先回りして、価値を釣り上げる構造だ。

代表的なのが「Y2K」や「アーカイブ(ARCHIVE)」、そして先述の「オールド○○」といった言葉の乱用だ。

本来、アーカイブとは歴史的に重要な意味を持つ、保管されるべき一品を指す言葉だったはずだ。 それが今ではどうだろう。 単なる2000年代の裏原ブランドや、デザイナーズブランドの型落ち品であれば、何でもかんでもアーカイブと呼び、法外な値段をつけている。

これは「文化の再評価」ではない。 「言葉による価値の捏造」だ。

物の質や、辿ってきた時間が重要なのではなく、「どのカテゴリーに分類できるか」だけで価格が決まる。 これほどクリエイティビティに欠ける評価基準はない。

カテゴリー(言葉)を先に作り、そこに当てはまる物をかき集め、文脈を無理やり後付けして、情弱な層に売りつける。 この「言葉が主役で、物は脇役」という逆転現象こそが、俺が最も嫌う現代の古着ビジネスの正体だ。


「赤耳直後」という言葉の姑息さ

この傾向は、デニムの世界でも顕著だ。 俺が特に違和感を感じる言葉の一つに、「赤耳直後」という表現がある。

これは要するに、価値が確立されている「赤耳(1980年代前半まで)」が終わった後の、本来なら単なる「レギュラー品」に過ぎないものを、少しでも高く売るために生み出された言葉だ。

「赤耳が終わってすぐの個体だから、まだヴィンテージの名残がある」 「作りがヴィンテージに近い」

そう言われれば、初心者は「お、それならお買い得かも」と思ってしまう。 だが、考えてみてほしい。 赤耳からレギュラーへの移行は、生産効率を上げるための「合理化」の結果だ。 それは、偶然性や個体差というヴィンテージの面白さが、組織的に削ぎ落とされた瞬間の証拠でもある。

価値がないものに、価値があるものの名前を借りて「直後」というタグをつける。 この姑息なマーケティング手法は、物そのものの魅力を評価しているのではなく、ただ「ヴィンテージという名のパイ」を少しでも広く切り分けようとしているだけだ。さらにこれは古着文化ではなく、売上のためだけに価値を捏造しているに過ぎない。

直後だろうが何だろうが、ヴィンテージのフィルターから漏れたものは、レギュラーだ。 レギュラーとして楽しみ、レギュラーとしての適正価格で買うべきだ。レギュラーが悪いわけではない。レギュラーをヴィンテージのように扱い、言葉で下駄を履かせる行為は、結果として市場を不健全にし、本当に価値あるヴィンテージの地位すら貶めることになる。


定義が先か、実態が先か

なぜ、こんなにも言葉が氾濫するのか。 それは、現代人が「自分で物を見て、自分で価値を判断する」という面倒なプロセスを、言葉に依存することでショートカットしようとしているからだ。

「これはY2Kだから、お洒落なんだ」 「これはアーカイブだから、投資価値があるんだ」

そう思いたいだけではないのか。 自分の審美眼に自信がないから、誰かが作った言葉(定義)という杖を必要としているのではないか。

だが、本来のヴィンテージ体験は真逆にある。 名前すらついていない、誰にも注目されていないボロ布の中に、自分だけの「美」や「整合性」を見つけ出す。 言葉で説明できない魅力を、肌で感じる。 そこから、後付けで言葉が生まれるのが健全な姿だ。

今は順番が逆だ。 定義という「檻」が先にあり、その中に物を閉じ込めている。 それでは、物の「声」を聞くことはできない。


最適化への反動が、新たな最適化に飲み込まれる皮肉

第7章で、ヴィンテージは「最適化された世界に対するカウンターである」と述べた。 しかし皮肉なことに、今、そのカウンターそのものが「言葉」によって最適化され、ビジネスとして管理されている。

予測不可能なゆらぎを求めてヴィンテージに辿り着いたはずの人々が、今では「トレンドのハッシュタグ」に沿った古着を買い、画一的なスタイルに収まっている。 これでは、新品を買うのと何ら変わらない。

言葉による分類は、思考停止を招く。 「〇〇系」というレッテルを貼った瞬間に、その物の多面的な魅力は見えなくなる。 一期一会であるはずのヴィンテージが、単なる「スペック表」に変換されてしまう。

俺が「言葉で価値を作る構造」を嫌うのは、それがヴィンテージの持つ最大の魅力である「自由」を奪うからだ。


自分だけの物差しを持つということ

今の市場で違和感を感じずにいられるとしたら、それはまだ「自分の物差し」を持っていない証拠かもしれない。

「価値があると言われているもの」が、本当に自分にとって価値があるのか。 「オールドユニクロ」という言葉を剥ぎ取ったとき、そのシャツは本当に1万円の価値があると思えるのか。 「アーカイブ」という響きを除いたとき、そのデザインに心から惹かれるのか。

言葉を疑わなければならない。 古着屋の店員のセールストークを、SNSのインフルエンサーの定義を、そして何より「流行っているから」という自分の言い訳を。

言葉の呪縛から逃れたとき、初めてあなたの前には「剥き出しの古着」が現れる。 そこにあるのは、タグでも、年代でも、名前でもない。 ただの時間と、物質と、あなたの感性がぶつかり合う瞬間だけだ。


まとめ:ヴィンテージの尊厳を守るために

第8章をまとめよう。

  • オールドユニクロは「古い良品」であっても「ヴィンテージ」ではない
  • ヴィンテージの要件である「設計の欠如」と「偶然性」が量産品には存在しない
  • Y2Kやアーカイブといった言葉の乱用は、価値の捏造である
  • 「〇〇直後」といった姑息な言葉遊びに踊らされるな
  • 言葉(定義)から入るのではなく、物(実態)から入れ

俺たちは、言葉を買いに来たのではない。 時間を、そして自分だけの物語を買いに来たはずだ。

価値というものは、他人の口から出るものではなく、あなたの内側から湧き上がるものであるべきだ。 もしあなたが、流行のハッシュタグが付いていない古着に10万円払えるのだとしたら、そのときあなたは本物の「ヴィンテージ愛好家」への一歩を踏み出したと言える。

さて、これで思想編はひと通り終わりだ。 第7章で「構造」を学び、第8章で「まやかし」を排した。 準備は整った。

次章、第9章からは、ようやく実践編だ。 数多ある古着の中から、どのようにして「本物」を見抜き、自分の相棒を選び出すのか。 捌零式流の、解像度の高い選定術を余すことなく伝えていく。

言葉に惑わされるな。目を研ぎ澄ませ。 ここからが本当の勝負だ。

ここまで書いて思うのは、間が空きすぎてどんな文体だったかわからなくなってきた。。。

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